最近読んだ本389

『生と死をめぐる断想』、岸本葉子著、中公文庫、2020年。

著者(1961年生まれ)は人気のエッセイストで、しかしながら2001年に「がん治療(pp.15)」をお受けになりました。

四十でがんになり、生死のことはより差し迫ったテーマとなった。(pp.20)

ご病気をきっかけに種々の文献を渉猟され、多数の専門家たちともお会いになり、そうした活動の成果をまとめられたのが上掲書です。

大事なテーマの読物と期待しました。

全ページを繰りました。

わたしの読後感としては、まず何よりも、著者が2020年現在、ご活躍でいらっしゃることを衷心よりお慶び申しあげます。

つぎに、きびしい意見となりますが、本書は「深いとはいえない内容で、しかも中身が迷走している」、こう思いました。

なぜ「深いとはいえない内容」なのか。

著者が死を考察なさるにあたって、岸本英夫(1903~1964)や多田富雄(1934~2010)それに頼藤和寛(1947~2001)といった、卑近な人々の著書・絶筆を参照されているからです。

各氏はそれぞれ素晴らしい業績をのこし(わたしは精神科医・頼藤の著作はすべて読み、尊敬しています)、皆さま、がんで亡くなられたため、けっして的外れであるとはいえません。

けれども、「死」のような重いテーマをあつかう際には、やはり、

V・E・フランクル著『死と愛:実存分析入門』、みすず書房(1957年)

E・キューブラー・ロス著『死ぬ瞬間:死にゆく人々との対話』、読売新聞社(1971年)

ヒルティ著、『眠られぬ夜のために 第1部・第2部』、岩波文庫(1973年)

加藤周一、M・ライシュ、R・J・リフトン著『日本人の死生観』、岩波新書(1977年)

シャーウィン・B・ヌーランド著『人間らしい死にかた』、河出書房新社(1995年)

古典・名著を引き合いに出すべきだったでしょう。

著者は東京大学教養学部をご卒業されているので、上記程度の本ならばとっくに目を通されているはず。

「エッセイだから難解な議論は避けたい」的なお気もちがあったのかもしれません。

ちなみに、わたしは(自分で紹介したにもかかわらず)既述5冊より、

司馬遼太郎著『ひとびとの足音』、中央公論社(1981年)

を繙(ひもと)いた折「他者の死、己の死」に関して省察させられました。

そして、当方が失礼にも「中身が迷走している」と断じた理由。

『生と死をめぐる断想』全体でフロイドおよびユングの思想が縷々(るる)語られているからです。

精神分析とは何をするものなのか。
ひらたく言えば、私がふつう思っている自分が私の唯一の状態ではないと気づかせることだろう。(pp.58)

この「唯一の状態ではない」なるお気づきのあと待っているのは「フロイドやユングが想定した『状態』」に過ぎないわけです。

彼らの言説にはたいした根拠がなく、そんな怪しい話を信じたりして、人にどれほど望ましい変化が生じるというのでしょうか。

あまつさえ、本書第66ページ以降は、著者の「スピリチュアル(pp.80)」への接近すら記述されていました。

最先端の医学で解決できない問題に行き当たったとき、私の接近していったのも科学の代替知だった。(pp.67)

代替知と呼ばれるほとんどのものは「知」の体裁など有していません。

がんにかかってしまわれた当事者の苦悩・葛藤を分らなくはないとはいえ、不可解な領域へ近づくべきでなかったのではないか、方向性を間違っているのではないか、との疑いをいだきました。

もしも、わたしが「最先端の医学で解決できない問題に行き当たった」ような場合、たとえ予想効果が限られていても、覚悟して、その時点で医学が提供できる治療のみに身を委ねるでしょう。

以上、批判しました。

せっかく著者が『生と死を~』前半で、

死後の生があると思えず、断崖絶壁としての死を措定し、それまでの期間、生の密度を高めたい。(pp.37)

美しくも切実な言葉をお書きになって、わたしは共感したのに、残念です。

金原俊輔

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