最近読んだ本440

『四月七日の桜:戦艦「大和」と伊藤整一の最期』、中田整一 著、講談社文庫、2021年。

伊藤整一(1890~1945)は、海軍中将でした。

1944年(昭和19年)12月に第二艦隊司令長官となって戦艦「大和」に乗艦。

1945年(昭和20年)4月、坊ノ岬沖海戦で米軍の猛攻撃を受け大和が沈没した際、彼は多数の部下たちとともに戦死しました。

ほどなく海軍大将へ特進しています。

標題内の「四月七日」とは、大和最期の日であり、伊藤が亡くなった日でもありました。

わが国では「桜」が満開のころだったでしょうし、「軍人の覚悟」の比喩である「桜」の意味合いもこめて、標題に桜が含まれています。

著者(1941年生まれ)はNHK職員だったかたで、退局されたのち、おもに昭和史ノンフィクションを執筆しておられるみたいです。

本書では、太平洋戦争の顛末、大日本帝国海軍の文化、戦艦大和に関する逸話、などを網羅的に紹介してくださり、主人公・伊藤の人柄および長くはない一生で遭遇したできごとも細々(こまごま)お書きになりました。

数例をあげましょう。

伊藤は柳川市の福岡県立中学伝習館で学びました。

家から柳川まで12キロ半の道のりを毎日歩いて通った。急ぎ足でも片道3時間少々はかかる距離である。(pp.71)

彼は新婚早々妻子を失い、後年、やがて糟糠(そうこう)の妻となるちとせと、再婚のためのお見合いをします。

挨拶を済ませるとお愛想ひとつ言うでなく、座敷に運ばれてきた御馳走に静かに箸をつけるばかりでほとんど喋らなかった。寡黙な伊藤の普段の姿であった。(pp.81)

伊藤は海軍派遣でアメリカ留学を経験したのですが、これにまつわり、本人の長女・純子は、

覚えていることがある。伊藤が、アメリカから持ち帰った帰国荷物のトランクの中に、タキシードとエナメルシューズがあったことだ。(中略)
社交行事の晩餐会やダンスを楽しんでいた頃の持ち物だった。(pp.103)

海の上では、戦艦「榛名」艦長だった時期、

新米の従兵が、紅茶を出そうとして緊張のあまり砂糖と間違えて塩をいれて持ってきた。伊藤は、カップに口をつけてすぐに気づいたがそのまま最後まで飲んでしまった。取り違えに気づいた従兵は、青くなって大慌てに慌てた。どのようなお叱りがくるかと覚悟したが、伊藤はただニコニコと悠然としていた。(pp.102)

無口で温厚かつ境遇に逆らわない人物だった模様です。

『四月七日の桜』はさまざまな角度から味わい思索することが可能な作品でした。

わたしの場合、戦争に駆りだされた軍人たちの苦衷、彼らを取りまく人々のやるせない心情、こうした話題が胸に迫りました。

たとえば、いよいよ大和が沈むとき、

「私は残る、君たちが行くのは私の命令だ。お前たちは若いんだ、生き残って次の決戦にそなえよ」と、伊藤は決然と言い放った。(中略)
参謀たちは、後ろ髪を引かれる思いで伊藤長官と別れの握手を交わした。参謀たちひとりひとりの手を固く握りしめた。(中略)
伊藤は、握手を終えると壁を伝いながら艦橋下の長官室の方へ向かって行った。(pp.241)

また、伊藤の娘たちの記憶によると、父親の死を通知するため来訪した報告者が伊藤宅を辞去した直後、

玄関のドアが閉まるとほぼ同時に、廊下を駆け出すちとせのスリッパの音がした。着物の裾がはだける音がそれに重なった。(中略)
廊下の奥には、仏間にたどり着く前にくずおれた母の姿があった。(中略)
ちとせはやっとの思いで家の一番奥まった八畳の仏間に駆けこむと夫の遺書を開いた。いとしい夫の筆跡が目に飛び込んできた。(pp.244)

さらに、伊藤の長男は海軍兵学校を経て海軍航空隊に入隊、休日にはよく同期生たちを連れ自宅へ帰ってきていたそうです。

伊藤家では、一度遊びにきた候補生たちの消息を聞くことは禁句になっていた。かれらが次々に戦死していったからだ。(pp.283)

長男自身、特攻隊に志願するや、まるで父親のあとを追うがごとく戦死しました。

どれも、読みながら、つらくなります。

とはいえ日本人である以上、そして今の平和が国内外のいかなる犠牲・懊悩・悲嘆に基づき達成されたかを知悉しておく責任を果たすうえでも、われわれはこの種の書物を読むべきと考えます。

なお、当コラム後半で引用した、司令長官の戦没が遺族に伝えられた箇所ですが、そこで提示されている、伊藤が愛妻ちとせに宛てた遺書は、わたしがこれまでに接した文章のなかで最も美しいもののひとつでした。

涙がにじみました。

金原俊輔

前の記事

最近読んだ本439

次の記事

最近読んだ本441