最近読んだ本472:『無理ゲー社会』、橘玲 著、小学館新書、2021年

標題内にある「無理ゲー」とは「攻略不可能なゲーム(pp.10)」の意。

橘氏(1959年生まれ)は、攻略するのがきわめて難しい現代社会に、人々が「同意なく参加させられている(pp.10)」のではないか、それは「とてつもなく理不尽(pp.10)」なことなのではないか、という問題意識のもと、上掲書をお書きになりました。

ご勉強家の氏が、知識を縦横に組み合わせながら、鋭い見解を提出なさっています。

とりわけ「PART2:知能格差社会」は、知能を軸にして社会の不平等・不公平あるいは人生の困難さを論じておられ、非常なる説得力でした。

たとえば教育学みたいな特定学問には、知能が人へおよぼす影響を「不都合な事実(pp.119)」として言及したがらない傾向があるため、橘氏の意見具陳は果敢だったと思います。

ただし、読了後、わたしにはいくつか疑問がのこりました。

それらは「果たして過去に無理ゲーではなかった社会があったのか?」という疑問などなのですが、本コラムでは心理学者としての疑問だけを述べます。

著者が、心理学の科学的研究をいくつも援用なさりつつ、科学とは無縁の「無意識」なる言葉をたびたびおつかいになった件です。

まず、

私たちは、相手にどの程度の利用価値があるかを(無意識に)見積もっている。どれほど親切でも、なんの権力ももたず、たいした能力もない相手はほとんど役に立たないのだ。(中略)
わたしたちは、有能な者に魅力を感じ、無能な者を避けるよう進化の過程で「設計」されている。(pp.102)

もしも、本当に、人間において他者の「利用価値」を「見積も」る行動が「設計」されているのなら、そうした行動は無意識によるものではなく、直後の文章にあったように「本能(pp.102)」と見るべきでしょう。

無意識と本能は以て非なるものです。

つぎに、

わたしたちは無意識のうちに、親(子育て)や教師(教育)が子どもの将来に決定的な影響を与えるはずだと思っている。(pp.116)

「~はずだと思っている」場合、それって無意識ではなく、意識ですよ。

上の文は「無意識のうちに」を削除し「わたしたちは、親(子育て)や教師(教育)が~」とすれば、スッキリして良かったのではないでしょうか。

ヒトの脳(無意識)は因果応報で世界を理解するよう、進化の過程で「設計」されているのだ。(pp.190)

われわれが「因果応報」に期待する心理は「公正世界仮説」と呼ばれ、実験社会心理学の領域で綿密に研究されています。

これまで種々の事柄が明らかになっており、そこへ無意識が割りこんでくる隙はありません。

学校の食堂(中略)、サラダを手に取りやすいところに、フライドポテトを取りにくいところに置けば、生徒たちはこの「デザイン」によって、(無意識に)健康にいい料理をたくさん食べるようになるだろう。(pp.253)

「無意識に」ではなく「無自覚のうちに」でしょう。

最後に、

知的な(あるいは自分を「知的」だと思っている)ひとたちは、世界を変えることに夢中になる。それは社会のなかでの地位を引き上げ、自尊心を高める(無意識による)必死の努力なのだ。(pp.264)

これはもう、ほとんど意味不明でした。

以上『無理ゲー社会』においては、実験心理学の成果に沿って話が展開されるいっぽう、諸所で無意識が登場し、この一貫性のなさは、なんらかの病気にたいする医学の治療法を手ほどきしている書物がカルトっぽい施術をも推奨しだす異様ぶりと、同断です。

科学とは、こつこつ研究を積みかさねた後に小さな発見を語ることができる程度の地味な営為であり、鍵概念をかざしてあれこれ円転滑脱に説明してみせる芸当ではありません。

ちなみに、無意識は実在するのかどうかと問われたら、わたしは「実在しない。科学に疎い学者たちの勘違いの結果、長期記憶や閾下知覚(いきかちかく)の一部分がそう俗解されているに過ぎない」と答えます。

金原俊輔