最近読んだ本515:『トオサンの桜 台湾日本語世代からの遺言』、平野久美子 著、産経NF文庫、2022年
台湾では、
日本統治時代(1895~1945)に生まれ、日本式の教育を受け、現在も日本語を使いこなす。(pp.14)
こうした人々を「トオサン」と呼びます。
漢字では「多桑」と書き、意味は日本語の「父さん」と同じ。
「呉念真監督が1994年に制作した映画『多桑』に由来する(pp.11)」表現なのだそうです。
上掲書は、このトオサンたちを訪ね歩いてインタビューした記録で、すでに彼らが老い、やがてはおひとりもいらっしゃらなくなってしまう状況を鑑みると、歴史的意義を具備する、出版されるべきノンフィクションでした。
著者(1950年生まれ)は対象者に丁寧な聞き取りをなさるかたです。
も、綿密な取材に裏づけられていました。
『トオサンの桜~』においては、第2章および終章で、王海清氏(1924~2022)のエピソードを紹介してくださっています。
王氏は教育を重んじない貧しい家庭で育ったのですが、両親に頼み込み、「本島人(台湾人)の子供たち専用の教育機関(pp.69)」である公学校、いわば現代の小学校、に入学しました。
当時の公学校では高学年児童の授業を日本人教師が担当、王氏は、
自分の能力を認めてくれるうえに、家庭の貧しさについてもさりげない配慮をしてくれる教師たち。弁当を持参できない海清さんにそっと握り飯を分けてくれたり、無学で無理解の両親を説得してくれたり、なにくれとなく少年を励ます教師の慈愛は、かさぶただらけの少年の心に深く浸みこんだ。(pp.78)
良い体験をされたみたいです。
長じて雑貨店を経営し裕福になられました。
すると氏は、台湾のほぼ中央、霧社という街の埔霧公路(ほむこうろ)に、ボランティアで、たったひとりで桜を植樹しだして、いつしか桜は3000本に達しました。
桜の木を選んだ理由ですが、他の多くのトオサンらとおなじく「『桜。日本的なもの』を忘れなかった(pp.59)」ため。
王海清さんの長年の努力によって、埔霧公路はサクラの名所として知れ渡り、多くの観光客が花見に来るようになった。(pp.236)
彼は「台湾の花咲爺さん(pp.60)」ですし、彼が植えた桜は「トオサンのサクラ(pp.236)」なのです。
本書では、王トオサンに加え、第2次世界大戦後、台湾から日本の北海道に引きあげた恩師を探しだしたのち、短歌を添えた手紙を送ったトオサン、サムライにあこがれているトオサン、それどころか、ご自分をサムライと見なしているトオサン、帝国海軍志願兵の制服を大切に保管していたトオサン、20世紀終盤になっても「大東亜戦争は聖戦だった(pp.173)」と主張するトオサン、等々、個性あふれるトオサンがたくさん登場しました。
書名で示唆されているとおり、また、今回のコラム前半でも触れたとおり、『トオサンの桜~』文庫化に先立ち、すくなからぬトオサンが逝去なさいました。
依然としてご存命のトオサンがおられる場合、いっそうの長寿を願います。
世界でもめずらしいほど強固な台湾と日本のつながりに改めて気づかされる感動の物語でした。
金原俊輔