最近読んだ本540:『論語清談』、西部邁、福田和也 共著、木村岳雄 監修、草思社、2022年

わたしは『論語』自体には関心が薄いものの、福田氏(1960年生まれ)の愛読者であるので、上掲書を購入しました。

西部氏(1939~2018)と福田氏の座談に、ときどき木村氏(1963年生まれ)が加わり、孔子(紀元前551年~紀元前479年、中国)の言説を融通無碍(ゆうずうむげ)に解釈してゆく、そうした趣向の一冊です。

本コラム冒頭で「関心が薄い」と述べさせていただきましたが、さすがは『論語』、われわれ日本人が知悉し日常的に使っている言い回しの連発でした。

たとえば、

「朋(とも)有り、遠方より来たる、亦(また)楽しからずや」(pp.25)

「巧言令色、鮮なし仁」(pp.30)

「三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知る」(pp.49)

「暴虎馮河(ぼうこひょうが)」(pp.56)

「君子は和して同ぜず」(pp.81)

「子は怪力乱神を語らず」(pp.116)

「学びて思はざれば即ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば即ち殆(あやふ)し」(pp.143)

……など。

『論語』が日本文化の根本にあたえてきた影響に刮目しないではいられません。

西洋において最も広く読まれ、影響を与えてきた本といえば、聖書である。では東洋でそれにあたる本は何かといえば、『論語』である。(pp.1)

この指摘は妥当でしょう。

ただし、『論語』も聖書も、果てしない深読みが為(な)されがち、言葉を切り張りしさえすれば世人のいかなる境遇にも適用できる、だから数十世紀にわたって人々を惹きつけてきた、そんな可能性もありはします。

それでは以下、『論語』『論語清談』に対する私見を、ふたつ書きます。

まず、わたしが好きな『論語』の一節は「子は怪力乱神(かい・りょく・らん・しん)を語らず」。

「孔子は(中略)ほんとの怪しげなもの、ほんとの力、ほんとの乱れ、ほんとに神々しいもの(pp.116)」について語らなかった、なる意味合いの(お弟子さんが遺した)回想です。

怪しげなものを奉(たてまつ)らない……、これは科学性を貴ぶ行動主義心理学者であるわたしの心情にピッタリきます。

かつて諸大学での講義中、行動主義の神髄を説明する際に、よく「怪力乱神~」を援引しました。

なつかしいです。

西部氏・福田氏が当該文に問題意識をもたれ、フランス哲学まで繰りだしながら他項より長めに意見交換なさった展開を、おもしろく受けとめました。

つぎに、『論語』内の各表現に関し思うこと。

漢文調で読めば箴言のように響くいっぽう、それを現代日本語や英語に訳してみると、あんがい常識的なセリフに過ぎず、陳腐にすら聞こえる場合があります。

一例として「巧言令色、鮮(すく)なし仁」の現代語訳は、

言葉が巧みで、恰好がよいという、それはどうも仁において悖(もと)るところがある(後略)。(pp.30)

英訳は(拙訳なのですが)、

A person, who is honey-tongued and is nice-looking, may not be benevolent.

さして含蓄があるわけでないうえ、人間を型にはめ、偏見で眺めてしまう、不穏な決めつけとすら言えるのではないでしょうか?

横町の御隠居が若い衆を前に訓戒を垂れている感じも漂い、ちょっと「聖人(pp.176)」の言辞とまでは……。

こうした難を有するため、当方、いまいち孔子の説話集に興味を抱けないのです。

金原俊輔