最近読んだ本673:『笑いで歴史学を変える方法:歴史初心者からアカデミアまで』、池田さなえ 著、星海社新書、2024年
上掲書が述べている主張の、当該主張にいたるまでの経緯が、わたしにはよく分りませんでした。
「歴史学」とは大学で研究され、学会や学術誌上で発表され、議論が戦わされる「学問」である。(中略)
学問であるからには、物語としての面白さや文学的文章としての巧拙は二の次である。自然科学と同様に、論理性や方法の妥当性、着眼点の独創性などが評価される。(P. 24)
ここまでは理解できます。
歴史学においては、さかなクンさんのような存在が多すぎるのである。歴史好きを公言するタレント、歴史上の人物をモチーフにしたアイドル、歴史を扱うユーチューバーやSNSのインフルエンサーなど、「歴史」を多くの人びとに伝えることをなりわいとしている人はあまたいる。(P. 10)
この嘆きにも、痛いほど共感。
当方が専攻してきた心理学とて同様の状況であり、むしろ心理学では「海洋生物学(P. 10)」における「さかなクンさん」レベルに達していない人がめずらしくなく、にもかかわらず、そんな連中が心理学を「多くの人びとに伝えることをなりわいとしている」からです。
しかし、以降の話題が追いかけづらくなってゆきます。
池田氏(1988年生まれ)は、歴史学の学問的アイデンティティの再確立を願ったうえで、かなり唐突に「笑い(P. 177)」の意義を提示して、
「勉学」を「遊戯」することによって、既存の歴史学界という、所々に様々なひずみを生じながらも依然として強い効力を保っている「権威」を一部無力化する。(P. 266)
と(ちゃんと脈絡を立たせずに)訴えられました。
氏が重視する笑いとは、
たとえて言えば、虫の生態や理科室での実験に夢中になる少年や鉄道や兵器に夢中になるオタクたちを傍(はた)から見たときの「笑い」であった。そこには「狂気」がある。純粋にその物事を知りたいという欲求のみに突き動かされて、一見無意味に思えるような、一文の得にもならないことに執念深く取り組んでいる、その姿勢の「狂気」である。
このような研究は、本人は全く無意識でも傍から見て「笑える」ときがある。(P. 38)
引用した例文に笑いの要素が含まれているということには賛成するものの、本書の叙述がそちらへ向かって収れんしないのです。
科学をおもちゃにして、真剣にふざけることは決して科学の冒瀆(ぼうとく)にならないばかりか、却って科学の力に対する敬意を広く共有させる効果さえある。(P. 231)
この引用文とひとつ前の引用文は異なる事象を語っており、そして、そもそも科学でふざける行為など今どき大した「冒瀆」にはならないでしょうし、いっぽう、ふざける行為が「科学の力に対する敬意を広く共有させる効果」に結実したりはしないようにも思われました。
私見を書きますと、池田氏はお考えを煮詰めないまま『笑いで歴史学を変える方法』を執筆されたのではないか、なぜなら、ひとり合点(がてん)で読者に意味が通じない箇所が少なくない、こう感じています。
ここまでの話をしてきて、「ちゃんと伝わってる……?」と不安になる筆者である。(P. 34)
妥当なご不安……。
まじめな研究から笑いを引きだそうという歴史学の楽しみかた自体にはまったく異論はありません。
ユニークな目標です。
ただし、そのためには、歴史学界にナンシー関(1962~2002)のごとき才能あふれる観察者兼書き手が現われてくるしかなく、然(しか)らずんば目標達成は叶(かな)わないでしょう。
金原俊輔