最近読んだ本708:『文化が違えば、心も違う?:文化心理学の冒険』、北山忍 著、岩波新書、2025年

北山氏(1957年生まれ)は、京都大学をご卒業後、米国ミシガン大学の大学院に進学して博士号を取得されました。

2025年現在、ミシガン大学心理学部教授かつ京都大学特任教授でいらっしゃり、アメリカ心理学会など複数の学会に所属しておられます。

文化心理学がご専門。

わたしは、昨今話題に上がりがちな「グローバリゼーション(地球一体化)」「DEI(多様な人々に対する公平性および受け入れ)」「反移民」「外国人労働者」「外国人嫌悪」「帰国子女」といった事柄を考察するうえで学術的道標となってくれるだろうと期待し、本書のページを開きました。

……期待どおりには行きませんでした。

その理由。

文化に本質があるとすれば、それは文化が本質を持たないという事実にある。(P. 213)

こんな意味不明というか、たんなる言葉あそびというか、「だったら、文化心理学は虚空をつかもうとする残念な学問?」とツッコミたくなってしまうような文章(*)や、

文化がしばしば目に見えぬかたちで人の心理や行動に作用することは疑えない。(P. 215)

と、たぶん誰も疑ってなどいない、ごく当たり前の文章が、随所に記されていたためです。

こちらが知りたい件への示唆はさほどありませんでした。

それはやむなしながら、書中でお書きになっている北山氏の学習心理学の知識が不正確。

学習心理学を専門とするわたしには引っかかりました。

そこで以下、本書における誤った学習心理学の情報を指摘したうえで、訂正をおこなわせていただきます。

人が文化の環境の中で振る舞うとその行動は、文化の慣習、常識、規範などとの関係で周りの人から褒められたり、あるいは叱責を受けたりする。
褒められることは「正の強化」と呼ばれ、将来的に同様の行動をより発現しやすくする。
逆に叱責されることは「負の強化」と呼ばれ、行動を抑制する。(P. 148)

間違いが輻輳(ふくそう)しています。

「正の強化」は、「同様の行動」が「より発現」されたのちに初めてそう呼ばれるものであって、正の強化が先行して存在しているわけではありません。

別の言いかたをすると、褒めることや褒められること自体が「正の強化」ではなく、褒められて「同様の行動」が「より発現」したときに、その成りゆきを「正の強化」と呼ぶのです。

また、われわれ人間は「褒められる」「叱責される」のどちらであれ、結果的に、なんらかの行動をより発現させる可能性を有しています(褒められたときにだけ、ある行動の発現が増加するのではなくて)。

たとえば、上司に「君は会議中の発言が少ない」と「叱責」された若手社員は、つぎの会議以降、発言頻度を増加させるかもしれないのです。

さらに、引用文中の「叱責されることは『負の強化』と呼ばれ、行動を抑制する」なる説明ですが、既述と同じ誤謬を含みもっていることに加え、これは「負の強化」の例ではなく「正の罰」の例。

学習心理学では、行動が増加すれば「強化」と呼び、行動が抑制されれば「罰」と呼ぶからです。

当方、北山氏は『文化が違えば、心も違う?』のご執筆に際し、学習心理学をしっかり復習なさっておくべきだった、と感じました。

学習心理学の知見は文化心理学の発展に寄与するでしょうし……。

ところで、

問題は、この普遍的な心とは、欧米の研究者が欧米人を調べて措定した「心」であることだ。
考えてみればずいぶん「自文化中心主義的」なのだが、悲しいかな、多くの非欧米人研究者もそう思って疑ってみなかったように思う。
日本も決して例外ではない。(P. iv)

上記は、わたしが和光大学で心理学を学んでいた約50年前、実験心理学や社会心理学の領域において取り沙汰されていた「問題」でした。

しかし、その後、非欧米人対象の研究が積みかさねられ、問題はある程度まで解決したと考えます。

文化心理学は(文化の心理学なのに)いまだそこにたどりついていないのでしょうか?

金原俊輔

(*)わたし自身は、文化の本質を「伝播(でんぱ)している習得的行動」と捉えています。