『焼肉大学』、鄭大聲著、ちくま文庫、2017年。

鄭氏(1933年生まれ)は滋賀県立大学名誉教授。

同大ご在職中は食文化の研究をなさっていたらしいです。

その関係なのか、著者は上掲書でカルビを「カビ」、キムチを「キチ」と、韓国語の発音にしたがい「ル」「ム」を小さく表記され正確さに気を配っておられます。

わたしも研究の世界に身をおくひとりとして理解できる心情です。

ほかでも、アメリカ大陸原産の唐辛子が「東洋においては最初に日本へ到着したのか、朝鮮半島が先だったのか」という国際的な議論になってしまいがちな事柄について、

日本の九州に1542年、朝鮮の地に1614年の記録があるので、どうやらこの間に日本から朝鮮へと伝わったとみるのが妥当であろう。(pp.90)

このように(韓国と北朝鮮のかたがたは気分を害するかもしれないものの)公正な記述をなさっていました。

さらには、

関東大震災である。このとき筆者の父は日本に単身で稼ぎに来ていた。千葉・船橋にいたそうである。朝鮮人が暴動を起こすというデマが流布され、朝鮮人が多数虐殺される痛ましい事件に父親は巻き込まれた。一緒に来ていた母親の従弟は父の目の前で殴り殺された。父親は助かった。(pp.98)

悲話を淡々とお書きになっており、冷静なかたでいらっしゃることや人格者でいらっしゃることも窺えました。

さて本書は、韓国に由来する焼肉・漬物・スープ類の味と歴史をくわしく語った随筆です。

わたしは焼肉が大好きですので、手にとりました。

ユッケ、カルビ、レバー、ミノ、センマイなどの肉類、白菜キムチ、キュウリキムチ、チヂミ、サンチュ、ナムルといった漬物およびつまみ類、そして、ワカメスープ、ユッケジャン、参鶏湯(サムゲタン)に代表されるスープ・鍋物のたぐい、以上を含め多種多様な料理が登場します。

むろんマッコリも焼酎の真露も出てきました。

「ロース」の項を引用させていただくと、

肉が柔らかいだけに、うま味成分が外に出やすい。白い脂肪が加熱によって簡単にとけて肉汁となるからである。
そこで適度な焼き方というものが必要となってくる。この肉汁のロスを抑えるためにはどうしたらよいか。それは高温で短時間に焼く方がよいのだ。(pp.30)

もしかしたら「ロス」は「ロース」にかけた寒い駄ジャレではないかと考えますが(立派な教授が授業中に下手なギャグを発するというのは、ありがちな状況)、それはさておき、わたしは焼肉店ではいつも読書しながらのんびり肉を焼いており、しかし、そんないいかげんな態度ではおいしいロースをいただくことができないようでした。

今後注意いたします。

つぎに「ワカメスープ」の項。

朝鮮半島ではむかしから妊婦のみなさまがワカメスープを食す習慣があると紹介されたうえで、

ワカメにはこの無機質のカルシウム、リン、ナトリウムなどが多く含まれているのだ。カルシウムは海藻類中でトップの座を占めるくらいの含有量だ。これをスープに入れて産婦は毎食のように食べることになる。(中略)カルシウムも、牛乳などがあるので不足するようなことは先ずないが、そうでなかった時代には、このワカメスープが非常に大切なメニューだったわけである。(pp.160)

なのだそうです。

ふたつの引用例のように興味ぶかい話題が続出しました。

楽しい本でした。

ところで同書を読みながら気づいたことがあります。

読んでいて、よだれが出たり「ああ、すぐさま焼肉を食べたい」と思ったり、自分にそうした反応がほとんど起こらなかったということです。

なぜか?

『焼肉大学』は文章が落ち着いていて、「これはまさに絶品、超おいしい!」とか「ジューシーな肉汁が激ウマ、俺はこのひと口のために生まれてきた!」とか、大げさで人の食欲に働きかけるような表現がなかったためです。

学者が書く文章はたとえ随筆であってもできるだけ抑制を効かせるべきでしょう。

その意味で、読書中お腹が減らなかったことにより、わたしはかえって著者を尊敬しました。

金原俊輔