『アクティブ・ニヒリズムを超えて』、西部邁、宮崎正弘共著、文芸社文庫、2018年。

ニヒリズムに関して、10代だったころ、わたしはロシアのツルゲーネフ(1818~1883)の小説を読んだことがあります。

イワン・ツルゲーネフ著『父と子』、岩波文庫(1960年)

でした。

本書『アクティブ・ニヒリズムを超えて』で重要視されている「アクティブ・ニヒリズム」とは、フランスの作家アンドレ・マルロー(1901~1976)に由来する言葉だそうです(わたしはマルロー作品のほうは未読です)。

「ひたすら何かのアクションへ自分を駆り立ててしまえという衝動(pp.72)」を意味しているらしく、当該定義はしかし、わたしが理解するニヒリズムとはかなり異なったものでした。

その件はさておき、『アクティブ~』は、西部氏(1939~2018)および宮崎氏(1946年生まれ)という保守系論者による対談。

背景となっていたのは日本社会への危機感です。

たとえば、わが国の知識人が批判精神を失っているとする西部氏は、

現在の自分自身に満悦を覚えて自己批評の精神も何もなくなった人々を「大衆」と呼んでいます。いろいろな大衆論がありますが、いくら金持ちであろうが、いくら社会的ステータスが高かろうが、そういう批評精神を失った者を大衆と呼ぶというのが、大衆論の基本的な流れです。(pp.112)

辛口の整理をおこないました。

きっとそうなのでしょうが、以上を読んで、わたしは諸文献で紹介されている現代中国の一部の人たちの気質を連想しました。

これに対し宮崎氏は、

批判精神がなくなったのは、口では何かを言いながらも、実は物質的に満ち足りているという状況が背景にあります。1960年代の中盤くらいからそういう現象が起きてきました。映画も娯楽に徹するようになり、文学はポルノ化の先走りで、日常生活のバリエーションを克明に書いて、たとえば国家とか民族とかの大きなことがテーマになりません。(pp.114)

たる解説をなさいました。

こちらのご発言からは昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」を想起させられます。

つまり、わたしはご両所が憂いておられる状況が、海外でも(おそらくは多数の国々において)見られる可能性、日本史でも(おそらくはたびたび)見られる可能性、に思いを馳せたのです。

読者がそういった方面に思いを馳せるのは本書が目的としたことではなかったはずですから、わたしはうっかり脱線してしまったのでしょう。

危機感を背景にしつつ、外交・防衛への熱い主張が語られていました。

ぜんぜん「ニヒル」などではないおふたりでした。

わたしは、ご主張に接しながら、西部氏は理念的・抽象的であり、宮崎氏は実際的・現実的である、こんなふうな印象をもちました。

その違いのおかげで、議論がいっそう深く掘りさげられた感じです。

2018年出版の本ですが、対談自体は2010年におこなわれました。

8年前(ほとんど「ひとむかし」前)の対談なのに、中身が古くなっておらず、依然として読者を啓蒙する力を有しています。

西部氏・宮崎氏のご主張を堪能しました。

金原俊輔