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『「砂漠の狐」ロンメル:ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』、大木毅著、角川新書、2019年。

本書は、第2次世界大戦中にドイツ陸軍の将軍だった、エルヴィン・ロンメル(1891~1944)の人生を描いた評伝です。

見事な出来栄えでした。

技術者になりたかった少年が軍隊に入り、最終階級として元帥にまで昇進したものの、ときの総統アドルフ・ヒトラー(1889~1945)暗殺計画に関与した疑いをかけられ服毒自殺をした、以上の経緯が詳述されています。

ロンメルは、アフリカ北部の戦場で装甲師団を率いて勇敢に闘い、「いつしか『砂漠の狐』のニックネームで知られ(pp.200)」だしました。

わたし自身、本書をひらく前から、ロンメル将軍の名前および「砂漠の狐」なる異名ぐらいは知っていました。

また、彼が、連合国軍の「ノルマンディー上陸作戦」にたいし、迎え撃つ側として「いちばん長い日(pp.276)」という有名な表現をつかった件も。

ただし、当方の知識はその程度でした。

漠然と「ロンメルはすばらしい軍人だったのだろう」、こう思いこんでいました。

ところが『「砂漠の狐」ロンメル』によれば、彼は武官として極端にすばらしかったわけではないみたいです。

なぜ周囲から尊敬され、あんな印象的な呼ばれかたをされたのか、なぜ陸軍のトップへ上り詰めることができたのか、腑に落ちません。

ロンメルの人柄は、「病的な功名心(pp.43)」「『性格的な欠陥』がある(pp.43)」「恣意専横(しいせんおう)(pp.134)」「ときに全体を見渡す力を欠く(pp.173)」「苛酷(かこく)で無愛想なやりよう(pp.173)」……ほめ言葉とはいえない言葉がならびます。

いっぽう、

ドイツ国防軍最高司令部は、自由フランス軍は、国際法上の交戦資格を持つ軍隊とはみなさず、その将兵が捕虜となった場合は銃殺せよとの命令を下した。(中略)
しかし、ビル・ハケイムの戦闘で捕虜になった自由フランス軍将兵と、そのなかにいた亡命ドイツ人が殺されることはなかった。ロンメルは、非人道的な命令とあれば、総統のそれであろうと無視したのである。(pp.212)

こんな倫理感も所持していました。

人間というのは誰もが良い面と悪い面を併せもつ存在なのでしょう。

いずれにしても、ロンメルが担っていた声望に関する疑問は氷解しなかったです。

さて、当時は「日独伊三国同盟」(1940~1945)が結ばれており、同盟の3カ国は「枢軸」と称されていました。

ドイツのロンメルがどうして北アフリカにいたのかというと、味方であるイタリア軍を支援するためだったのです。

1940年9月、

植民地だったリビアから、エジプト王国(1922年に独立したが、イギリスの間接支配を受けていた)に侵攻したイタリア軍は、英機甲部隊を中核に据えた反攻に遭い、潰走(かいそう)した。(pp.153)

ヒトラーとしては、盟邦の苦境を看過するわけにはいかなかった。また、放置しておけば、バルカン半島や北アフリカが、英軍反攻のスタートラインになりかねない。(pp.154)

そんな状況下、「ヒトラーはロンメルに白羽の矢を立てた。(pp.157)」、こういう流れです。

イタリア軍を救うべく、ロンメルのドイツ軍は連合国のひとつであるイギリス軍と激突しました。

さりながら3年後、イタリアは、

枢軸側から離反することは確実だと目されるようになったため、つぎなる事態に備える計画が立案される。イタリアが降伏した場合に、その軍隊を武装解除し、ドイツ軍に抵抗する能力を奪うことを目的とした「枢軸(アクセ)」作戦であった。
9月3日、連合軍がイタリア本土に上陸し、8日にはイタリア降伏を知らせるラジオ放送がなされる。(pp.265)

無条件降伏にいたってしまいました。

このあたりの動きについて、わたしは中学校時代に社会科の授業で教わった記憶があります。

従軍体験をおもちだった社会科の先生は、やがてイタリアが(あろうことか)日独に宣戦布告をしてきた史実も、悲憤慷慨(ひふんこうがい)なさりつつ話されました。

さらに、しばらくのあいだ日独で共有されたという例のブラック・ジョーク「つぎはイタリア抜きで~」も、紹介されたのです。

われわれ生徒たちは、なんだかとても納得しました……。

『「砂漠の狐」ロンメル』を読書中、わたしには遠いむかしの思い出がよみがえってきました。

金原俊輔

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