最近読んだ本598:『幕末・明治 偉人たちの「定年後」』、河合敦 著、扶桑社文庫、2023年
江戸時代後半から明治時代にかけ活躍した偉人たちの現役引退後さらには晩年の生きかたに焦点をあてて、論評した列伝です。
わたしは歴史学に暗いいっぽう、歴史小説の類は少なからず読んできたため、上掲書においてはむかし何らかの作品で知った顔ぶれと多く再会しました。
・勝海舟(1823~1899)
・榎本武揚(1836~1908)
・板垣退助(1837~1919)
・永倉新八(1839~1915)
・東郷平八郎(1847~1934)
・北里柴三郎(1852~1931)
・秋山好古(1859~1930)
こうした面々。
わたしが接してきた小説よりも『幕末・明治 偉人たち~』のほうが史実を大事にしているはずで、その結果、本書を通しいっそう正確な歴史知識を得ることができたと思います。
伝記・自伝はもともと人生指針になり得る読物なのですが、河合氏(1965年生まれ)の場合「定年後」に目を向けた点にご工夫があり、ご工夫は人生終盤に入り暗中模索しているであろう年輩者らの需要に応えている、と想像しました。
北里柴三郎に関する章を例示しましょう。
学生は狂喜して11人が一斉に柴三郎に抱きついた。(中略)
この一事をもって、いかに柴三郎が人望に厚い人物だったかがわかるだろう。
それから柴三郎は6年の月日を生きた。
まったく健康で精力的だった。親分肌でバンバンと金を使い、人々を支援し、自分も楽しんだ。(中略)同時に弱者のために尽くした。(pp.139)
北里は人格者で、それが高齢期に入っても変化しなかった旨の記述に触れ、高齢のわたしは感動します。
気になったのは、彼が第1回ノーベル生理学・医学賞の候補となっていたのに受賞できなかった件が語られていなかったこと。
なぜ同賞を獲得できなかったというと「非白人だったからではないか」なる推測がなされつづけており、河合氏はどう思っておられるのか、ご見解を読んでみたかったです。
福地源一郎(1841~1906)章は、個人的に興味津々でした。
源一郎は、幕臣、新政府の役人、新聞記者、政党の党首、小説家、歌舞伎の座付作者、歴史家であった。(pp.209)
徳川家の幕臣として「外国奉行調役格・通弁御用頭取(pp.195)」、明治維新後の新政府では「大蔵省御用掛(pp.196)」、つまり国家の外交や経済運営を担当しました。
いまで言うテクノクラートに近い存在です。
福地は長崎の出身で、わたしがむかし長崎史の書籍を熱中して読んでいたころ、彼を各書で幾度も見かけ、こちらにしてみれば旧知の同郷人。
何でもそつなくこなしてしまう才能に恵まれながら、情にもろく、女に弱いため、ついぞ一分野において功績を残すことなく終わったのである。(pp.212)
おそらく「一所懸命」の性根がなかったのでしょう。
惜しい生涯でした。
なお、大久保利通(1830~1878)が30歳だった福地に対し「大きな才能を持ちながら、むなしい人生を送ることになるだろう(pp.213)」と説諭したエピソードには、わたしは過去の読書で遭遇しませんでした。
福地の最晩年、
源一郎をよく知る田村正義は、「御病中、譫言(うわごと)の様にお久ちゃんお久ちゃんといふ」(『演芸逸史無線電話』玄文社 大正7年)のだが、家人はそれが誰か見当もつかなかった。が、どうやら晩年に贔屓(ひいき)にしていた赤坂の江戸屋にいる女だということがわかったと述べている。病気になってからも一日に何度も彼女がこっそり訪ねてきたらしい。このように、稼いだ金の大半は女性につぎ込まれたようだ。(pp.208)
数行前「惜しい生涯でした」と書いたものの、享楽的な生きかたを貫き、本人に悔いはなかったかもしれません。
また、「『一所懸命』の性根がなかった」という私見についても、よくよく考えると、これは当方を含めた長崎男の典型像であり、彼だけを責めるわけにはいかないでしょう。
金原俊輔