最近読んだ本309
『インパールで戦い抜いた日本兵:戦場に残った気骨の兵士たち』、将口泰浩著、NF文庫、2019年。
期待していた内容とは異なる内容でした。
1944年3月の「インパール作戦」。
大日本帝国陸軍がイギリス軍およびインド軍を相手に攻防して惨敗した、日本史にのこる無謀な戦いです。
わたしには当該作戦についてちゃんとした知識がなかったので、つねづね「詳細を知りたい」と思っていました。
インパールはインド東部マニプール州の州都であり、ミャンマーに隣接しています。
作戦の指揮をとったのは「第15軍司令官の牟田口廉也(むたぐちれんや)中将(pp.12)」。
インパールは防御堅個で、88日間包囲したが、食糧・弾薬が尽き、全軍壊滅状態に陥った。
それでも、牟田口は作戦続行に固執した。(pp.12)
参加兵士10万人のうち死者3万人、戦傷病者は4万5千人にのぼった。飢えとマラリア、赤痢など多くの兵士が戦病死だった。(pp.13)
『インパールで戦い抜いた日本兵』では、こうした基本的な史実が確かに書かれています。
わたしは描写される情景や出てくる数字に戦慄しました。
とはいえ、本書がおもに語った事項は、作戦中止後に敵軍へ投降せず、あるいは投降したあとで収容所から脱走し、現地にのこり生活した元・日本軍兵士たちの人生です。
第二次世界大戦が起こっていなければ、インパール作戦に巻き込まれていなければ、おそらく晩年までふつうに日本で暮らしたであろう人々。
彼らは数奇な運命の結果、タイやミャンマーの山奥でご家庭をもち、日本を避けるようにしながら生きられました。
艱難辛苦・寂寥・不安は、いかばかりだったでしょう。
『インパールで~』書、わたしが予想していなかった中身だったとはいえ、読んだ甲斐がありました。
なんとなく気分が明るくなるエピソードも多々含まれています。
たとえば、敗走し、ミャンマー(当時はビルマ)のラッカという村に潜んだ8人の兵士は、しばしば村を襲ってくる「タコ」という武装集団に村人らのため立ち向かいました。
よれよれの中野たち日本兵を哀れに思ったのか、ラッカの村人がこれまでに経験したことがないほど、親切にしてくれた。(中略)
中野は村長の隣の民家に寝泊まりして、用心棒を買って出た。同じように他の日本兵も主要箇所に寝泊まりした。
雨が小やみになったある晩、銃声と怒声が響いた。タコの襲撃である。待ちかまえていた中野ら日本兵が村の入り口で迎撃した。いくら銃を持った武装集団でも、こちらは本物の軍、しかも歴戦の強者、「白骨街道」を生き抜いた兵士である。ひとたまりもなかった。
「それはそうですよね、軍隊ですから。いやあ、尊敬されましたよ。日本人は強いっていわれてね」(pp.50)
まさに、
映画『七人の侍』(黒澤明監督、1954年)
を彷彿(ほうふつ)させる話です。
つづいて、各兵士が潜伏先で結婚したのち授かった子どもたちは、とうぜんながら大和民族の血をひいています。
このことに関し、ミャンマーとタイの国境メスリン村では、
エーは無邪気だ。
「わたしは日本人の子供として生まれたのが誇り。わたしの血の半分は日本人よといって、歩きたいくらい。どんなにすばらしいところなのか、想像もつかない。ああ行ってみたい」(pp.168)
おなじくタイのクンユアムでは、
次男のサグロンは55歳になっている。
「子供のときから父のことは周囲の大人からよく聞きました。何でもできた男だっていいます。友人がいまでもお前は本当に日本人の子かって聞くんです。本当だと威張って答えますよ。今でも私の誇りです。私は日本兵の子です」(pp.194)
たいへんありがたいお言葉でした。
現代のわれわれは彼らの恥とはならない日本人をめざさなければなりません。
もうひとつ。
日本軍は東南アジア唯一の独立国で同盟国であるタイを兄弟国と認識していた。当時出した訓令でも、タイ人との接し方や生活態度に至るまで7項目にわたり、軍紀を徹底した。(中略)
この軍紀が厳しく守られていたため、いまだにタイは世界有数の親日国であり日本軍や日本兵を嫌悪することもなく(後略)。(pp.178)
軍隊・軍人諸氏の心構えを尊敬いたします。
逆に、総責任者の牟田口中将(1888~1966)。
撤退が始まったころ、司令部で牟田口が藤原岩市参謀にぼそっといった。
「これだけの作戦の失敗をしたら、わしは腹を切らねばならんのう」
これに対し、藤原の返答である。
「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。(中略)黙って腹を切ってください。だれも邪魔したり、止めたりいたしません。心おきなく腹を切ってください」(pp.43)
しかし本人は、
戦後、東京・調布で長い余生を送る。
「牟田口司令官は死んだ兵隊たちに誠にすまなかったと頭を下げたことは死ぬまで一度もなかった」
かつての部下が話したという。
「私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」
牟田口は自己弁護に終始した。それどころか、部下の葬儀会場で自分にいかに責任がなかったかという冊子を配布したこともある。(pp.44)
苦々しく受け止めざるを得ないエピソードも紹介されました。
金原俊輔