最近読んだ本398

『一九七二:「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』、坪内祐三著、文春学藝ライブラリー、2020年。

2020年に他界された識者たちのなかで、わたしが最も胸を突かれた人物は、坪内祐三氏(1958~2020)です。

歴史・文化・芸術に造詣が深かったうえ、それらを背景とした閃(ひらめ)きも鋭いかたでした。

前文の具体例をあげます。

氏は福田和也氏との対談、

坪内祐三、福田和也共著『羊頭狗肉:のんだくれ時評65選』、扶桑社(2014年)

において、ボブ・ディランのアルバム『テンペスト』を激賞しながら、

坪内  もしこの『テンペスト』も選考対象に入ってたら、絶対にノーベル文学賞を獲ると思うんだよ。(中略)
アメリカ人の作家でノーベル文学賞を獲りそうなのはフィリップ・ロスだけど、フィリップ・ロスかボブ・ディランかと言えば、ボブ・ディランだよ。(坪内・福田書、pp.45)

と発言なさいました。

同対談は2012年10月におこなわれており、その当時、ボブ・ディランとノーベル賞とを結びつけて考えたファンがいったい世界に何人いたでしょうか。

ディランは2016年にノーベル文学賞を受賞、フィリップ・ロスは受賞しないまま2018年に逝去、わたしは坪内氏の先見の明に舌を巻きました。

さて『一九七二』書。

1972年(昭和47年)に生じた種々のできごとを追想する読物でした。

なぜ1972年?

坪内氏は日本の高度経済成長が1964年に始まり1972年に終わったと措定し、

そう、私は、「はじまりのおわり」である1972年以前に生まれた人となら、たぶん、歴史意識を共有出来る気がする。だが、それよりあとに生まれた人たちとは、歴史に対する断絶がある。たぶん。(pp.14)

ご自身にとって重要なこの年を、自己体験に照らし合わせつつ、展望されたわけです。

充実の内容でした。

中心となった話題は連合赤軍それにロックンロールです。

連合赤軍事件のことは甚大なる興味をもって読んだいっぽう、わたしは音楽への関心が薄いため、陸続と登場するミュージシャンたちのエピソードには若干退屈させられました。

吉田拓郎と井上陽水はヒットチャートをにぎわせてもテレビにはけっして出演しないという形で、彼らなりに反体制派(より正確に言えば非体制派)の筋を通そうとした。(pp.343)

さすがにこれぐらいでしたら思い出の糸が振動します。

そのほか、グアム島からの邦人兵士帰還、日活ロマンポルノ、札幌オリンピック開催、米国ニクソン大統領の訪中、プロレス、情報誌『ぴあ』創刊、などに関しても解説がありました。

副題後半「おわりのはじまり」はどのような意味かといえば、氏は1972年出版の田中角栄著『日本列島改造論』(日刊工業新聞社)を評しつつ、

列島改造によって日本の街は「個性」を失った。街が「個性」を失えば、それに伴って、人間だって「個性」を失う。しかもそのことにまったく自覚なく。(中略)
では、はたしてこれから30年後は。(pp.476)

つまり、同書の出版年からわが国の「没個性化」が始まった、という主張が込められている文言みたいです。

わたしにとっての1972年は、テレビ時代劇『木枯し紋次郎』放送開始、札幌オリンピック(わけてもジャネット・リン選手)、田中角栄の内閣総理大臣就任、こんなところであり、以上はすべて『一九七二』で言及されました。

著者は抜群の記憶力を誇られ、当方ごときの頭の片隅にもない事象を多数おぼえていらっしゃいます。

自分より若い書き手が1972年を細かく振り返る、そしてその人は自分が注目している直中(ただなか)亡くなられる、故人の生前の業績を偲び、自分自身の1972年を回顧する……、ずいぶん時間軸が輻輳(ふくそう)する、濃い読書となりました。

こうした状況下、わたしは三つの時間が詠み込まれていることで有名な俳句、

あなたなる 夜雨の葛の あなたかな  芝不器男(1926年)

を想起しました。

金原俊輔

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